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君と僕の物語探検隊

怖がりヘタレのフリーランスのライターがマインドフルネス瞑想を実践しながら踏み出すブログです。

自分の弱さと向き合うにはエネルギーがいるよね?

ライターの城です。

 

マインドフルネスでも、アドラー哲学でも自分の弱さと向き合いそのことを認識することはその実践のための入口だと思います。

 

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ただそれは入口でありながら物凄いハードルの高さだと言うことも感じます。

 

特に社会に出て仕事をバリバリしている人ほどその難しさを感じずに入られません。

 

日々生活のため、守るもののために好きでないことをやり続けるってとんでもないエネルギーを使うと思います。

 

残業なんてすればなおさらそう。自分を大事にしなきゃなんてとても言っていられません。寝る時間のために食べる時間が惜しい。ただでさえ疲れている中にさらに自分のダメなとこを自分の意思で掘り起こすって、あの頃だったら絶対やりたがらないです。

 

僕何度か書きましたが、仕事がうまく言ってなくて苦しくて、根本的に見つめ直したいと思っていてもきつかった。上司に左遷の警告を受けても、その危機感こそあっても、ちゃんと考えなきゃいけないのは重々分かっていたけれど、どうしたらいいのかは思考に霞がかかったままだった。

 

しかも、それよりも不満のはけ口を発散させるために飲んだりカラオケしたりする時間がほしかった。

 

大きな流れに逆らわなきゃという焦りはそれよりも圧倒的に強いもう流されてしまえよという投げやりさに負けた。

 

かすかに眠っていた欲望は

 

「幸せになりたい、いまのままではいけない」

 

そんな声はたやすく流されてもういいやと投げやりになった。

 

こうやって結局会社を辞めてフラフラしていた自分だから今思います。この流れに飲まれてなお自分の意志で止まるのがいかに大変かと。

 

身体、心の疲労を回復させて腰を据えて自分と向き合う時間があって本当に良かったと。その時間や休息を作るのが大変な人だっていると思います。

 

できるわけないだろって思う人もいると思います。そういう人ほど、向き合うということをしないと怖いと思うんです。

 

僕は確かに社会からはドロップアウトしたのかもしれません。会社を辞めて辛い思いもしなかったわけではありません。それでも辞める前より確実に充実しています。それが良かったと言い切れます。

 

それは辞めるという決断をしなければ、何も変えられないまま流され続け、幸せになれやしないと何もしないままグチグチしていただけだろうと思うからです。もちろん絶対とは言いませんが、当時の心境を考えるとかなりの確率でそうだと思います。

 

会社をやめろとは言わないけれど、心と身体の余裕がない限りきちんと自分と向き合った決断は難しいんじゃないかと思うのです。

 

常識とか、会社の雰囲気とかより自分にとってはあなた自身の方が大事なはずです。自分勝手にするという意味ではなくね。

 

だから、身体も心もきちんと休めてくださいね。

【天狼院記事更新】「情熱格差」に負けない心を求めて

やりたいことがある人間が嫌いだった。そういう人間と話すのが苦手だった。話していると、心の中に淀みが出てくるのに気づく。太陽と話しているような気分になる。眩しいからこれ以上話さなくて欲しいと心の中で思ってしまう自分がいる。


それとは逆に「やりたいことがあるフリをする人間」は扱いやすい。「やりたいことがある」と、はっきり言ってくる。こっちより優位に立とうとしてくる。そこをちょっと突いてあげればいい。


「どうして、そうしたいの?」


「なんで?」


そう質問攻めにする。


「いや、いつかやれたらいいなと思ってる」


「え、だってそのほうが困っている人たちが助かる気がして」


相手はしどろもどろになる。答えに困る。そして不必要に長く喋って言葉に説得力がなくなってくる。やりたい気持ちを伝えることより、こっちに認めさせることを考えている具体的になるためのイメージを持っていないことがわかる。僕はその人間が発する言葉の軽さに敏感だ。それを確認すると、ああ、やっぱりそうか、と心の中でほんの少しだけ安心する。この人は「やりたいこと」を隠れ蓑にして、自分を守っている。そうやって薄っぺらな自分を隠しているんだとわかってしまう。

 

だけど、やりたいことがある人間は違う。

 

続きはこちらより。

 

http://tenro-in.com/mediagp/34298

 

このブログは怖がりの僕が一歩を踏み出し続ける物語だ

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ライターのじょーです。

 

僕は2017年1月からフリーランスになりました。

 

「書く」ことが好きでということももちろんあります。

 

その一方で「社会にうまく適合できなかった」という側面もあります。

 

最初に勤めた会社こそ5年働きましたが、そこから1年以上は職を転々としてきました。

 

人より要領が悪く、周りのことを見ることが苦手で、一緒に仕事をする人たちに何度も怒られ、落胆されてきました。手先も不器用でしたし、思ったことが顔にも行動にも出すぎていました。

 

やるべきことをちゃんとやらなければいけない。それはわかっていたのですが、自分の仕事がその水準に届いていませんでした。自分の気持ちを押し殺して働くことができませんでした。

 

「頑張っているとは思うんだけど、なんか残念なんだよね」

 

そうため息交じりで言われることは少なくありませんでした。会社には左遷され、腫物を扱うように扱われました。

 

メモを取る習慣がなかったから、メモを取り始めればメモそのものをどこかにやってしまう。メモを取っても上司の指示を理解したつもりになっていたら、実は間違っていて怒られてしまう。それでなるべく確認するように努めたら、「そんなことまで、いちいち確認するな!」と一喝される。そして、ミスは治らず繰り返す。そんな日々を送り、周りの目線が変わっていくのを感じていました。

 

「できること」が少なく、周りに必要とされないことは苦しいです。社会人になって「必要とされている」と感じることはあまりありませんでした。

 

やりたいことがわかりきらないまま社会人になり、僕は自分を見失っていました。「やりたいこと」がわからなくなっていたこと、「必要とされること」の二つを求めて転職をしました。

 

ですが、やりたいことだと思ってやり始めたことがやりたいことだと思って始めてもそれはうまくいきませんでした。

 

前職で残業を重ね、「働きたくない」という気持が一番強くなっていることに気づきませんでした。結果を出すことに執着しないで、なんとなくで生きればいいという行動をし続け上司から見限られ、仕事をあっという間に失ってしまいました。

 

自分の気持ちを押し殺して「働きたくない」という気持ちがありました。「甘い」ことは自分でもわかっていました。でもそれを押し殺して就活をしても態度で現れてしまう僕はうまくいかない日々を重ねてきました。

 

そうやって、「やりたいこと」を模索してアルバイトをする日々を重ねました。その中で出会ったのが「書く」ということでした。少ないバイト代をはたいてライティングの講座を受け、記事を投稿することをはじめました。

 

そのことについてはこちらも見ていただけるとより伝わるかと思います。またそのことについても違う記事で書いていきたいと思います。

 

y-j-etoile.hatenablog.com

 

 

書いている中で面白かったといってくれる人がいたりする中で、「やりたいこと」が「できること」になった小さな実感を得ました。

 

その一方で誰かに感動を伝える喜びを感じる一方で、中傷されるのは本気で怖い自分もいます。

 

ただ怒られるのですらちょっとびくびくしているのに、向こうから明確な敵意をもっていると感じると心臓がどくどく言いますし、声はどもってしまうし、頭も回らなくなります。その怖さを想像して行動を止めてしまう僕もいます。

 

相反する欲望がときどき僕の心にブレーキをかけます。それで物事が中途半端になってしまって落ち込んでしまうこともあります。この記事も5日ぶりの更新だなんていうことも僕の中ではありえないことです。

 

何度も書き直しては消し、書き直しては消しを繰り返して気が付けば5日間の放置。それで「書く」ことを仕事にしようなんて甘いよと言われたら何も言い返せません。

 

でも、それが諦める理由にはならないのです。

 

僕は長い間「やりたい」という気持ちを「やりたい」と素直に言えなかったから。そして心の中に中傷の「怖さ」を諦める理由にしてしまいそうな自分がいるから。

 

やりたいことを自信満々で語る人が苦手でした。

 

そういう人は行動を積み重ねていくから。

 

その行動が言葉に重さを自然に持たせていて、「覚悟」の違いをまざまざと感じて圧倒されるからです。

 

その人と比較しても意味はないんだと思ったんです。喜んでくれる人がいました。「面白い」と言ってくれる人もいました。

 

僕の中の迷いとそれでも行動したい、それでいいかと思ったんです。

 

今僕が思う「書く」ことへの気持ちはそういった人たちには及ばないかもしれません。でもそうやって人と比べるより、自分の中に少しずつ育っているその気持ちを育てたいと思ったんです。

 

「誰かと比べなくても、怖がりでも自分のやりたいことをごまかさずにやっていく」

 

これが僕がブログを書く理由です。

 

やりたいことを小さい形でも行動して積み重ねていくことで、成長していく僕自身の物語を書いていきたいと思います。

 

熱量を表に出したくて、でも出すのが怖い。

 

その勇気がなかった昔の僕や似た思いを持っている人に届けたいです。

 

かつての僕はその思いをごまかし続けてきたから。

 

・行動哲学

 

・マインドフルネス

 

・身体と心の健康

 

・実践して感じること

 

そういったことをできるだけ寄り添うように発信していきます。

 

はっきりとやりたいと言えなくてもいい。

 

怖いと思っていてもいい。

 

ほんの少しの行動でもいい。

 

そんな小さなステップを僕が踏み続けることで変化していきたいですし、読んだ人のきっかけになればと思います。

 

「そんなことは甘い夢物語だ」

 

「でも、お金のことや仕事の忙しさでそれは難しいよ」

 

そういう声もあると思います。そうかもしれません。でも小さなできることに目を向けない言い訳にしているだけかもしれないですよね?

 

やりたいことのためにできることが何もないなんてことはないはず。

 

それが僕の考えです。

いっそマインドフルネスなんて知らないほうが楽だったのに

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「正直言うとカス過ぎるんですけど」

 

引越のアルバイトをしていて、責任者であるドライバーに言われたひとことである。かなりストレートだけど、その表現そのものに傷ついたわけではなかった。

 

反論できなかった。悔しかったわけでもなかった。一番傷ついたのは、自分がその言葉に答えるすべを持たないことだった。

 

「いちいち確認しないでほしいし、もっと先を見て動いてほしい。正直3日目くらいの高校生のほうが役に立ちます」

 

ただ感情的になっていて言われたわけではないと思った。苛立ってはいたけど彼は冷静だったし、自分と他の人間についてもきちんと把握したうえでいったことであるのもわかる。

 

「なんでそんなに作業が遅いんですか?」

 

単純に疑問だったのだろう。でも、僕には答えられなかった。彼の疑問に本当なら考えを伝えるべきなのにできなかった。

 

なぜなら全力だったからだ。自分なりの全力を尽くして、最善を尽くしたつもりだったのだ。そして何気ないことだからこそ、解決策がなかったからだ。

 

そんなことを言っても彼が納得するわけはないと思った。それでも下されたのは残酷なジャッジだった。

 

僕は周囲の状況を見るのが苦手だ。そして、同時並行で作業を展開することが苦手だ。それはもう人によっては「全然使えない」と言われるほどに。

 

昔、建築業で働いているときも同じだった。同じようにもっと早くやれとか、周りをよく見ろとか、指示をきちんと理解しろとか、言われていた。

 

いろんなことを試行錯誤した。でも、結果が出るのには約1年かかった。それでも「ちょっとマシになった」に留まるもので、本当に役に立てているとは言えないレベルだった。

 

さらにもっと困るのはこうやって仕事を変えて、覚えなければいけないことがこうやってリセットされるとほぼ1からやり直しとなってしまうことだった。

 

 

 

マインドフルネスという考え方はこういう時にある意味残酷だと思う。

 

「あいつにあんなこと言われたけどまぁいいか」

 

「あいつの言っていることの意味がわからないんだけど」

 

「全力でやってるんだからしょうがないじゃん」

 

それで片づけるほうが楽なのだ。こういうときに誰かに愚痴をこぼしたり、カラオケなんかにいってストレスを発散したりするほうが、はるかに手っ取り早いような気もする。

 

そうやっていた時期もあった。でも、そんな言葉で片づけるのをマインドフルネスは許さない。

 

「いまここにあることに意識を向ける」ということがマインドフルネスの定義であるなら、自分の中のごまかしをするのはマインドフルネスからかけ離れた考え方だから。

 

だけど、僕は今ここで感じていることをわざわざ告白し、分析している。冒頭に書いたように結構傷ついている。

 

ジョン・カバットジンが提唱するストレス軽減法でもなんでも「今の苦しみを楽にしたいんだよね」とか安易な考えでマインドフルネスを実践するのは絶対にやめたほうがいい。それならやらないほうがまだいい。

 

「マインドフルネス」を実践しようとしている人を増やしたいのがこのブログの大切なテーマだし、だからここに書いてあることはある意味で逆説的なことなのかもしれない。でもすごく大事なことだ。

 

嫌なことでも感じていることならまずは真っ向から向き合わなければいけない。それは苦しいし、悲しい。

 

だけど「マインドフルネス」を意識して、こうやって向き合った後だからできることがある。

 

それが「これからどうしたいか」ということだ。

 

冒頭の会話を経て、さらにこのプロセスを経るからこそ、取れる選択肢がある程度決まる。

 

まず彼との関係をどうするか。会社との関係をどうするか。今後良好な関係を維持できるかは正直に言ってわからない。できるなら維持したいけれど、改善のためには人より長い時間がかかってしまうことは過去の経験からわかっている。

 

そして、自分の本業はあくまでライターである。手を抜きたいわけではないが、こちらにかける時間のほうがはるかに重要だ。だから、必要とあれば辞めるということも選択肢に入る。いや、いつか辞めていかなければいけない。

 

このアルバイトは本業がまだ軌道に乗っていないから始めていることだけれど、時給がいい分役に立たなくても、居続けるだけで生活はある程度担保される。

 

現実的には働かなければいけない。でもこのことをずっと続けるのは甘えだ。

 

この甘えが自分を阻害していることに気づいた。冒頭のように必要とされない苦しみを抱えて仕事をし続けるより、書いているほうがはるかに楽しい。

 

4月の繁忙期を過ぎたら、アルバイトを辞めて、独立するために必要なことを考えたいと思うきっかけになった。辛かったけれど、だからこそこの体験には感謝の気持ちもある。どっちも本音だ。

 

マインドフルネスとかアドラーの言葉は、「いま、ここから幸せになれる」という一見甘い言葉に見える。でもそれは「幸せのためには行動し、自分と向き合い戦わなければいけない」という強烈な言葉でもあるということだと思っている。

 

だからマインドフルネスなんて知らないほうが楽だったかもしれないと思う。実際楽ではない。不安もある。でも、こうやって書いているときに、幸せを感じている自分もいる。

 

幸せになるための闘い。嬉しいことも悲しいことも真摯に正直に。そんな物語をこのブログで書いていきたい。

 

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「書く」というナイフに魅せられて

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大学を卒業し社会人になったとき、「自分と周りの人たちを笑顔にするんだ」なんて理想を心の中では思い切りやってやるんだと息巻いていた。でも自分の身の程が大したことないのかもわかっていなかった。

社会は自分の器の大きさよりも圧倒的な大きさで僕を引きずり回した。あっという間に忙しくなり、その理想は机上のものになった。やりたいことをやろうということがどれほど滑稽なことかと思った。

マンガ『ドラゴンボール』で強くなったと思ってフリーザに戦いを挑んだものの、圧倒的な力でボコボコにされるベジータみたいに絶望した。社会がそれほど圧倒的な力を持っているなんて知らなかった。

そして、自分の身の程を思い知ったのはたぶん僕だけではなかったんだと思う。当時の会社の同期も、大学の友人も、夢を語っていた友人がどんどん地に足をつけて、諦めて今の仕事を受け入れているのを見てきた。

その様子に僕はもやもやした。本来僕にもやもやする資格はない。僕自身もその現実に叩きのめされたのだから。でももやもやせずにいられなかった。それでもと自分の中の何かがささやき続けていた。

 

「お前は何がしたいんだ?」

 

ある先輩に問いただされたときに何も言えなかった。やりたいこと? とっさに何も出てこなかった。僕の疑問はこのとき膨れ上がった。

 

そうして僕は会社を辞めた。この仕事は「やりたいことじゃなかった」と思ったからだ。でも、何がしたいんだろう? この疑問に対して、僕自身もよくわからなくなっていた。その過程で僕はライティングゼミに入った。「人生を変える」という文言に魅せられたわけじゃなかった。ただ「書く」ということに引き付けられる自分がいた。mixiが好きだった時のことをなんとなく思い出して、興味がわいてきたのだ。もしかしたら、これがやりたいことかもしれない。僕はなんとなくの期待をライティングゼミにしていた。

 

自分の胸の中にある思いを人に伝えようとするのは楽しかった。感じたことに感想をもらえることもあった。それがうれしくて仕方なかった。

 

あるときから、徐々に書くことが苦しくなった。毎週の課題は自由で自分の好きに決められる。でも、毎週だし続け、書いた数も10を超えてきて、書くことに困るようになった。課題にも落ちる回数が増えた。

 

「書きたい」と思っているのになぜ苦しいんだろう? 

 

そう思うともう一つ疑問が浮かんできた。あれだけmixiで楽しんでいた僕がなぜ「書く」ということを志望することすらしなかったのだろう?

 

「書くのは楽しいけれど、それを仕事にして書けるとは思わなかったんだよね」

 

過去の自分は就活の真っただ中、友達にそういった。あれは確か大学3年の就活はじめたての頃だ。なんでだ。やりもしていないくせになんでそうおもったんだ? そう過去の自分に問いただす。そのときには自分にそのことを問いかけようとしなかった。でも今は問いたださずにいられない。

 

過去の自分はそのときへらへらと笑ってそういっていた。それから先就活に苦しむことになるとも知らずになんとかなるとそう思っていた。でも、今度は逃がさない。問い詰めると、過去の自分が恐る恐る口を開いた。

 

「誰かに批判されるのが怖かった」

 

「楽しい」と思っていたくせにそもそも挑戦しようともしなかったのだ。「自分と周りの人を笑顔にする」なんて理想を掲げているのにそもそも自分が楽しいと思うことにふたをしていた。自分の弱さに負けて逃げ出していた。そして、さらに悪いのはその自分を覆い隠そうとした。

 

夢を追い諦めて現実を受け入れる同期たちをみてなんでもやもやするのかそのときようやくわかった。うらやましかったのだ。やりたいことをやって挑戦をしたことに。その一方でスタートラインに立とうとすらしなかった自分に歯がゆさを感じていたのだ。

 

そうすると、書きにくくなったのも納得がいく。自分の見せたくないものを巧妙に無自覚にごまかそうとする自分がいたからだ。

 

「書く」という行為がそのときナイフのように鋭く光っていた。隠したものに切り込んでその本心を引きずり出した。

 

怖い! 書きたくない! 見せたくない! と心が叫んでいる。

 

「こんな嫌なものを見せたらきっとみんな嫌な顔をするから!」

 

その怖さも本心だ。でも僕はその思いが自分の「やりたいこと」にふたをしていた元凶だということに気づいてしまったのだ。

 

怖い。でもここで書くのを止めてしまったら、「やりたい」自分のことを殺してしまう。ナイフをすっと引き、隠そうとした先の言葉を引きずり出した。

 

痛い、でもどこかすーっとしている。もうやりたくないとささやく声もする。なのにそうやってこれまで気づいていなかったものを暴き出すことに快感があった。そして、それを見せることに快感もあった。

 

弱さをさらけ出したら、気持ちが楽になった。無意識にあったその怖さが何だったのかも書き出してみたら少しずつ見えてきた。

 

僕は人に必要とされることに飢えていたのだ。だから僕と似た「人見知りで人と関わるのが苦手だけど、自分を変えたくて動こうとしている人間」を見つけるのがそう言う人を見つけては本人の意見を聞き、望みをどう形にするのか、相談するのが好きだった。書くことで自分と似た境遇の人間の背中を押せたときに、満たされた気持ちになっていたのだ。

 

 

 

就職活動のときに気づかなかった僕の「望み」と「恐怖」は「書く」というナイフが暴き出してくれた。そのナイフがなかったら僕はきっと今でも無自覚にやりたいことから逃げて、逃げて逃げまくっていただろう。

 

無意識にある恐怖はまだ僕の中にある。本音を隠そうとして、書こうとする手を妨害する。でも最近ではその弱さに気づくと楽しくなってしまうのだ。痛みもあるけれど喜びもある。これまで見えていなかった自分を見せてくれる。そのことを教えてくれるこの行為にすっかり魅せられてしまっているのだ。

 

もし、あなたが僕と同じように、自分の弱さを越えたいと思うのなら、「書く」ということをしてみてほしいと思う。「書く」というナイフがあなたの本心を暴きたくてうずうずしているかもしれないから。

【瞑想記録】立ち止まって考えられない人ほど、ほんとに足を止めてほしいんだ。

怒られるのは苦手だ。それが善意だと気づいていても肩に力が入ってしまう。そしてミスしたくないと思えば思うほど、それは裏目に出て帰って怒られる結果になってしまう。

 

でも苦手だからと言ってそれだけで人と向き合うのをあきらめるのは正直抵抗があった。仕事が関わってくると、いやでもしなければいけないことは自分でもわかっているから。あまり個性とは関係ない部分もあるのはわかっていた。

 

それで社会を渡っていけないと思ったから必死でそれじゃいけないと思おうとした。

 

でも、肩の力は抜けてはくれなかった。何回意識しても力が入ってしまう。

 

瞑想を初めて1か月、改めて思ったのは考えているよりはるかに肩に力が入ってしまっているということだった。

 

そしてもうひとつは、肩に力が入っていることで、どれだけ僕が「自分」を見失ってしまうかということだった。

 

だから、今までは「苦手」というだけでその人を避けたりしないようにしようと思っていた。自分の社会経験が少ないからだとも思ったし、経験値で乗り越えられると思っていたから。

 

もうそれはやめようと思った。

 

少なくともその場所に自分を置かないように全力で避けようと思うことにした。

 

どうやっても肩に力が入ってしまう。どうやってもその人のことを避けたいと思ってしまう。

 

これまでは「逃げ」じゃないかと思ってできなかった。でも「逃げ」で何が悪いんだと今は思う。

 

でもこれまでの体験もただ悪いだけのものじゃなかったなとも思う。少なくとも、弱さと向き合うきっかけにはなったから。

 

座って目をつぶって、呼吸に意識をしていると、肩の力の入り方の違いに気が付くようになった。

 

そして、肩に力が入っていると思考に影響があることにも気づいた。不安になるし、僕自信を疑いがちになってしまう。

 

身体に入っている力と精神状態は深くつながっている。当たり前のことだというかもしれない。まぁその通りだと思う。

 

ただね、それを実感できることがいがにできていなかったし、できていない人もきっといるんじゃないかなと思うんだ。

 

当たり前のことを当たり前に感じられる余裕がない人だっているんじゃないかなと思うんだ。

 

何か偉そうなことを言える立場ではないけれど、僕は会社を辞めてじっくり考える余裕があったからこそ、そんなことに時間をかけれたし、自分の考えをゆっくり棚卸できた。

 

だから、忙しくて余裕がないって人ほど、できれば僕の言うことが届いてほしい。マインドフルネスも瞑想もそのためにあると思うから。

 

時間がないから無理だって思わないでほしい。難しいのも知っているし、そう思いたい気持ちがあるのは重々承知の上だから。

 

自分のしたいことは何か。改めて考える「時間と場所」はしっかり作らないと考えられない。これは僕自身の体験談だ。

 

こちらもよければ参照してください。

 

y-j-etoile.hatenablog.com

 

【瞑想記録】心にクッションを求めて


「どうするんだよ! これ!」

相手の怒号が電話越しに聞こえる。

「えっ……。少し待ってもらえますか?」

しどろもどろになりながら僕は答えた。いきなりのことでなんの案も出てこない。

「そんな時間はないから、いますぐ答えろ!」

「わかりました!じゃあ、一度それで進めてください」

あとから考えれば、何故そう答えたのか僕はよく答えられない。社会人としてこの対応が悪手であることは何より僕自身わかりきっているのに。

案の定問題になって僕の仕事を増やした。クレームも起きた。

「なんで、こんなことを勝手に判断したんだ!」

そう上司から怒号がとぶ。起こっている理由は明白だった。でも僕はその質問に答えられなかった。

なんでなんだろう? それは僕自身にとっての疑問でもあった。だって悪手なのはその時の自分にもよくわかっていたはずなのに。

自分で判断できないことなのはわかったのだ。上司やお客様の確認が必要だった。

なのに、その場ではそのことに頭がいかなかった。

焦っていたから。職人が怖かったから。時間が差し迫っていて、自分が迷えば迷うほど相手を苛立たせるのがわかっていたから。

僕はその場限りの怖さに頭の全てを持っていかれていた。

「すいませんでした。以後気をつけます」

だけど、そのあとも解決されなかった。

僕自身、理屈でそうなのはわかりきっていたし、理解もしているはずだったのに、改善の芽は出そうになかった。

「なんで言われたことができないんだ!」

上司の怒号は止まらない。僕自身何故なのかよく分からず、戸惑った。

思考にモヤがかかったように考えがまとまらなくなる。必要な情報を冷静に集めて出した結論のはずなのにもれがある。

この繰り返しは僕から自信を奪った。

自分の言葉に僕自身が責任を持てなくなっていた。

最終的に退職し、そこから路頭に迷い出した。



瞑想をはじめて、そろそろ2ヶ月が経った。

なぜ僕が瞑想をしているのか?

そう聞かれた時には、このときのことを思い出す。

僕はやるべきことに追われていた。

やりたいことも二の次だった。

その結果大事なものを落としてきたことに気づいていなかった。

いや、多分最初から見ていなかった。

「やりたいことはなんですか?」

就職活動で聞かれ考える。僕も僕に似た人もも考えることを余儀なくされ、答えを探し出す。

でも、そこで悩んで考え出した姿は

「僕のあるべき姿」だった。

やりたいことではなかった。全然関係なかった。

そして、やりたいことは何か、考えているようで少しも考えていなかったことに気づいた。

だから僕はマインドフルネスに興味を持ち、瞑想を始めた。

「いま、ここ」に意識を集中させることで、見えてくるものがあると思ったから。



そうして始めた瞑想が3ヶ月目に入った。

たまにやれなかったり、めんどくさがっていたりもするけれど、それでも最低でも、呼吸にだけは意識を合わせるようにしている。

何か変わったのか?

そう聞かれると僕の答えは、

「心のクッションに綿を詰まってきている感じがする」

と言う感じがする。

楽しいことを楽しいこととしてきちんとすくい上げて!怖いことを見てみないふりして拾い忘れないように。

昔、それは直視するのが怖くて仕方がないものだった。

今でも怖くないわけじゃない。でも、感情もクッションで包んであげて、少し余裕をもたせて見ているようなイメージで捉えるようになった。

正しいのかなんて分からない。

でも、心が感じているものを素直に受け取れるクッションができたということが、きっと僕の成果だ。

それでもいいんじゃないかなと思っている。